「Noise messenger[6]」 6-2-1 |
(6-2) 岩壁の前に立ってみると、目をひいた理由をマチスは嫌々ながらも理解せざるを得なかった。 「そうきたか……」 ただ見上げている限りはただ白い岩壁というだけだが、その白さは長いこと忘れていた画布を思い起こさせる。 画家の名前をつけられてはいたが才能は開花していない。向いていなかったからだとあっさり諦めていて、父親から描くものは見つかったかと突きつけられた時ですら信念の形を名前にひっかけて表せと言われたものだと思っていた。 だが、この時になって思い出すということは、心のどこかではずっと引っかかっていたのだろう。 幼い頃は自分の名前を単純にそういうものだと受け止め、画家の名前だと教えてもらうと、大きくなったら絵を描くのかとぼんやりと思った記憶はある。 だが、それから年月がたっていざ画布を前にすると名前負けもいいところの出来になってしまい、匙を投げた。 それで終わっていたはずなのである。 「変な名前だってわかっちゃいたんだがな」 家が魔道の発展を推し進めている中でその才能に恵まれず、旧来の僧侶の方面にも傾かなかった。そんな中で自分だけに与えられた、色々と筋道を外れたこの名前はそれほど嫌いにはならなかったのである。 だが、思い返してみればその鍵を握っているのは、疎遠になったどころか一昨日には死闘を繰り広げた父親だけだった。 後手後手に回っているというか、だいぶ遅れて気付いている感が強い。 国王派の中心近くにいた父親が処刑される可能性を省みると、もっと思い切った方法を採るべきだったのかもしれない――とは考えついても、それだけの原動力が城を攻める直前の自分にあったかどうかは非常に怪しいものがある。この山を脱出してから強引にでも面会するのが唯一取れそうな手段だが、これまでの事を思うとこの用件を主な柱にはしづらい。話せるのであれば、話したい事は他にも数多くあるのだ。 けれど、それはできない。また別の一方から淡々とした声がそう告げた。 三度目のボルガノンを受ける直前、掛け値なしに父親を殺すつもりで剣を向けた自覚がある。命がかかっていた場面だったとはいえ、その場限りのことだったと割り切れるものではなかった。 従兄弟のアイルが『害にしかならないお人好し』とマチスを評したのは、決して間違いではない。自分からやる事の多くで迷惑がかかっているのだから。 マケドニアに戻ってきて、戦争が終わった後の見通しというものを立てていい頃合になっているが、まずやるべき事は自分というやつの中の整理なのかもしれなかった。 そうしたら名前は裏切らなくなるのかもしれない――などと思いながら再び岩壁を見上げる。 絵心がなかろうと、自然が訴えてくる力を感じることはできる。 「凄いよな……」 「ここは特別じゃからのぅ」 突然降って湧いた声の方を振り向くと、わずか五歩ほど先に小さい人影がマチスと同じようにして岩壁を見上げていた。纏っているものこそ白かったが、隙間から見える老人の肌や、頭巾つきのローブで全身を包んでいるところは竜人族のバヌトゥを彷彿とさせる。 この老人も竜人族であったとしたら非常に厄介なことになるが、さすがにそこから問いかけるのはためらわれた。 緊張もあって、搾り出すような形になる。 「いつから、ここに……?」 「ついさっきじゃよ。足が短いでな、どうしても歩くのに時間がかかる」 何やら問題はそれどころではない気がするが、闖入者の自覚があるだけにそれ以上の事は言いづらかった。 「それにしても、これは何かの前触れなのだろうなぁ。こんな僻地で人をこれだけ見るというのは」 「そんなに、ここに?」 「数はどうというわけでもないが、係数待ちの者がおる。お主も見てみようか?」 そう言われても、そもそも係数とは何かという疑問を晴らしてくれないと何とも言いようがない。 「見るったって……」 「儂はこれが得意でな。なに、簡単に終わるわ」 老人は有無を言わさず懐から小さな盤を取り出した。黒いが、やけに透明感のあるという不思議な物体である。 マチスに盤をかざした老人は、呆れたような声を出した。 「これはこれは……どうにもでたらめじゃなぁ」 変人だの奇人だのと言われた回数はかなりのものである。この結果は、ある意味予測通りと言えた。 自虐の感もいくらか渦巻きつつ、老人へ頷く。 「前からずっとそんな感じで言われてたから、今更どうってもんでもないよ」 「いやいや、これくらいのでたらめになると却って貴重じゃよ」 全然嬉しくない褒め言葉である。 だが、老人は少しも茶化す様子もなく続けた。 「正も負も飛び抜けて広いが、半ばの範囲に弱いこともあって使い方に難渋する。針の数がもう少し増えればとは思うが、今のままでもできなくはない。面白いことは面白いが、これをどう動かせばいいのかを把握せんとでたらめのままじゃ。 長いこと生きてきたが、人にはこういうものもおるのだなぁ」 解説を聞いている間はどこかの国の王子と話している気分を思い出させられたが、最後の言葉は聞き捨てならなかった。 「じゃあ、あんた、やっぱり人間じゃあない、と」 「そうさな。かといって、北の方にいる竜の成れの果てともまた違うが」 事も無げに言ってくれたが、動揺を誘うには十分な答えだった。 この大陸でこうして言葉を操るものの存在は、人間と竜人族だけだと言われている。 それを、この老人は簡単に否定してしまった。 「儂は戦えなくなったから守り番の役目でここにおる。この岩を回った表側にあるのがそれじゃが……まぁお主は行かない方がいいじゃろう」 「それだけ厄介なものがあるってことだよな……?」 「まぁそういうことじゃ。係数が達してしまったら、巻き込まれてしまうのは避けられぬ」 この一連の話に、マチスはこれ以上ない渋面を作ることになった。 単純にわけのわからない、おそらくは脅威が身近になっているという理由が真っ先に上がりはするが、それだけではない。 もしここに来たのが単なる遭難の結果なら、すぐに引き返して予定通りに山頂に向かう決断をしただろう。 「ここで守り番をしてるっていうけど、何の番なんだ?」 「入口よ。儂らの……『世界』と呼べば良いかな」 「で、そこに入るとあんたの世界に飛ばされちまう?」 「人は入れぬよ。入ったところで資格のない者は肉体が四散してしまう。もっとも、開く時も係数が満たなければ訪れん。 だが、お主のような者がここに届くというのは不思議じゃな。遠慮なく言わせてもらえば、入る資格がない者がたどり着くことは、まずないからの」 「この山に来たのがまともじゃない方法だったんだけど、それでもか?」 マチスの言葉に老人は目を見張って、続きを促してきた。 「まともではないとは?」 「西にある大きい城から、この山に飛ばされてきたんだよ。多分、瞬間的に」 相変わらず納得のいく説明にならないと思いながら言ったものは、しかしこの老人を大きく唸らせた。 「ないではないかも、しれん。この大地は特別な力が働く場所がある。かつて魔道とか法力といったものを発展させる場所として使っておったからのぅ。一番大きいのは失った命を蘇らせるというものじゃな。あれをこちらの生き物が編み出したのはさすがに想像がつかなかった。 当然ながら大地は繋がっておる。その城とやらに作用する力があったとしても、完全な規格外ではなかろう」 「じゃあ、ここに着いたのはやっぱり……」 「係数、かの。お主がそれというのは、いささか難儀だが」 「だが、俺には時間がない。その同盟軍の人間が使者だというなら、早々にやってもらいたいものだ」 第三者の声の主は、朗々と響いた声音とは裏腹に相当やつれていた。今朝別れたナバールも相当に痩せぎすの体だったが、こちらは更に酷い。かなりぼろぼろになった竜騎士団の外套を背に流しているものの、それすらも重たく見えるような有様だった。 だが、この体でも衰えない目の光と、汚れはしているがそれとわかる真紅の髪がこの人間の正体を物語っていた。 |